静岡がんセンター「プロジェクトHOPE」が遺伝子解析で切り拓く がん医療の未来

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2016.11.29 Tue.  木原洋美

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トップ病院のチャレンジ

アメリカの人気女優アンジェリーナ・ジョリーが、乳がん予防を目的に乳房の切除手術を受けたのは2013年春。彼女に、まだ病気になる前の健康な乳房を切除する決意をさせたのは、“乳がんになるリスク87%”と算出した「遺伝子検査」の結果だった。

遺伝子を検査すれば、神のみぞ知る自分の「運命」――とりわけ病気のリスク――を先読みし、悲劇を回避できるかもしれない。そんな期待が世界中で高まっていた2014年1月、静岡がんセンターでスタートしたのが「プロジェクトHOPE」である。

「HOPE」とは、High-tech Omics-based Patient Evaluationの略。同センターでがん摘出手術を受ける患者の約1/3程度(年間約1000人)、3年間で3000人を対象に、がん特有の遺伝子の変異やタンパク質の異常、代謝産物の異常などをマルチオミクスと呼ばれる方法で統合的に解析し、患者一人ひとりの診断や治療に還元させていくとともに、新しいがん診断や治療の研究開発に役立てようとする取り組みだ。一つの病院で手術を受ける患者について、これだけの解析を行い、その結果をリアルタイムに診療に活かす試みは、世界的にもめずらしい。

「メモリアル・スローン・ケタリングがんセンター(MSKCC)、MDアンダーソンがんセンターといったアメリカを代表するがん専門病院でも、取り組みを始めたのは2015年からです。当センターは間違いなくパイオニアの1つです」

そう語るのは、センターの構想段階から参画し、「早期がんから看取りまで、患者に寄り添う理想の病院づくり」を追求してきた山口建総長だ。

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静岡がんセンター 山口建総長

静岡県立ではあるが、がん患者治療件数において同センターは、国立がんセンター、がん研有明病院と並んで日本のトップスリーの一角を占めている。

「そもそも構想の初期段階では、総合病院を作ることになっていました。しかし、病床規制の問題で認められず、がんセンターになったのです。ただ、静岡県としては、せっかく大金を投入するからには、より医療の進歩に貢献できる施設をめざしたい。そこで打ち上げられたのがファルマバレー構想でした。簡単にいうと、静岡がんセンターを中心に“医療城下町”を作ろうというプロジェクトです。そしてプロジェクトHOPEの成果は、城下町に参加してくれた企業のものづくりなどに活用されます」(山口 ※以下「」内はすべて山口総長の発言)

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プロジェクトHOPEへの期待

ファルマバレー構想は静岡がんセンターが設立された翌年の2003年からスタートしており、これまでにも、いくつもの華々しい実績を残してきた。

「たとえば2012年には、当センターが有する約1000例の肺がんに関するCTスキャンデータと、富士フイルムの高度な画像処理技術の連携によって、人工知能の技術を用いて医師の画像診断をサポートする世界で初めての『類似症例検索システム』の開発に成功しました。既に製品化され、医療現場で役立てられています」

山口総長は胸を張る。

さらに症例データ以外の、患者・医療スタッフの視点が、製品開発に活かされている事例もある。サンスターが開発した『がん患者向け口腔ケアセット』がそれだ。

「2006年から、当センターならびに静岡県歯科医師会とサンスターの共同研究開発によって誕生させた製品です。がん患者特有の、口腔の腫れや痛みに対応した口腔ケアが行えます。舌の切除手術、口腔がんなどへの放射線治療、さらには抗がん剤治療によって口の中は、最悪の状況になることがあります。普通の歯ブラシでは使うほどに悪化しますし、刺激性のペーストは痛くてとても使えません。そうした状況を、サンスターの研究者にも実際に見てもらい、活かしました。
このように、企業の能力と、静岡がんセンターの臨床経験やデータを組み合わせると、素晴らしい展開が生み出せる可能性があるのです。
プロジェクトHOPEでは、これ以上の成果が望めるでしょう」

プロジェクトHOPEは、既に当初の目標であった3000症例の解析を終えた。日本一の臨床検査会社SRL(エスアールエル)と組み、将来的には、5000~6000例のデータベースを完成させる予定だという。

「世界初の、純然たる日本人の遺伝子変化のデータベースです。これが出来上がることで初めて、今、全国の医療機関等で実施されている遺伝子検査データが正確に解析できるようになります。なぜなら日本人と欧米人では遺伝子にかなり違いがあるからです」

データの活用法

では現在、プロジェクトHOPEのデータは、どのような活用の仕方がなされているのだろうか。

秘められた可能性の発見と治療薬の選択に役立てる

「対象となった患者さんのうち、肺がんなど、悪性度の高いがんについては再発例がではじめています。そうした患者さんの遺伝子変異を調べると、今は肺がんには認められていないような分子標的治療薬でも効く可能性があることがわかるので、そのデータを利用して、バスケットスタディという臨床試験を行う準備をしています。
従来から行われている臨床試験は、ある特定の臓器のがんを対象として治療効果を調べる方法ですが、バスケットスタディは、がんの臓器にこだわらず腫瘍にみられる特異的な遺伝子変異を標的とした治療効果を調べる方法です。
肺がんと乳がんなど、異なったタイプのがんに罹患した患者さんでも、同じ遺伝子変異をもっている場合があることがわかっていますので、バスケットスタディでは、これらの患者さんにみられる遺伝子変異を標的にして薬剤の効果を調べていきます」

たとえば当初、患者数の少ないメラノーマという皮膚がんの治療薬として使用を認可された「オプジーボ」という薬が、後に日本人の肺がんのうち85%を占める非小細胞肺がんにも効果があることが判明し、改めて切除不能な肺がんの治療薬としても承認されているという出来事があった。(アメリカでは腎臓がんにも承認されている)
それにともない先日、薬価が改訂されて話題になったが、バスケットスタディは、このように、治療薬に秘められた可能性を、効率的に調べることを可能にする。また、治療薬を選択する際にも活用できる。

遺伝性がんの血縁者診療

「アンジェリーナ・ジョリーさんのような、遺伝性乳がんの存在はよく知られていますが、男性の大腸がん患者さんでも、同じ遺伝子変異を持っているケースがみつかりました。
男性の患者さんですから、当然、乳がんも卵巣がんも発症していないので、臨床医は誰も、遺伝性がんだとは思わず治療を進めます。
しかし、そういう変異があるということは、この家系の女性は、遺伝性乳がん・卵巣がん症候群の症例だということがわかる。そこで今度は、血縁者診療が可能になります。一人の患者さんを診療するのではなく、血縁者全員のケアが必要になってくるのです。
プロジェクトHOPEでは、そのようなケースが、BRCA1という乳がん・卵巣がん症候群の原因となる遺伝子だけでも数例出ており、他のいろいろな遺伝性がんを合わせると、20から30例ぐらい見つかっています」

突然死のリスク等をアドバイス

「これまでの国際的な研究によって、人間誰でも、5種類ぐらいの遺伝病の原因遺伝子を持っていることが計算上わかっています。プロジェクトHOPEでは、個々人のそうしたデータもすべて解析されています。なかでも優性遺伝で、片方の親からその遺伝子変異を継いでいれば、病気を発症するリスクが相当高いという人が、10例か15例ぐらい見つかっていますので、そうした患者さんについては、『あなたは将来心臓病で、突然死する可能性があるので、しっかりした治療を受けてくださいね』というアドバイスをしています」

薬に対する反応性の違いに対応

「体質の問題で、お薬に対する反応性の違いも徐々にわかるようになってきました。たとえばこの薬を使っても絶対に効かない患者さんとか、副作用が非常に強く出そうな患者さんとかがわかってきたので、プロジェクトHOPEの3000例については、臨床データと照らし合わせ、『この患者さんについて、この治療薬の使用時はこんな注意をしなければならない』といった注意喚起を現場に対して行っています」

将来の展望

プロジェクトHOPEは、すでに目標としていた3000の症例についての解析を終え、年度内にも最終報告を行うところまできている。

「報告の一番のポイントは、3000例のうち何割について、がんの原因となる遺伝子だと特定できるかどうかです。さらにその精度も、1000例の段階での報告より高めていきたい。
前回、1000例で報告した時には、原因となる遺伝子が判明しているのは6~7割で、そのうち治療薬が存在するのは1~2割程度、残りの4~5割には治療薬がありませんでした。一方、残りの3~4割について、『一体何が原因なのか』を明確にできれば、全く新しい遺伝子をターゲットとした分子標的治療薬を開発する余地があるということが、今明らかになってきました。
プロジェクトHOPEは、静岡がんセンターで手術した症例だけを対象にしているので、一般的な16種類のがんについてのデータはかなり集積されましたが、それ以外の希少がんについてはまだまだ不十分なので、そこも今後増やしていきたいところです」

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また昨今、取り組む医療機関が増えているクリニカルシーケンスとプロジェクトHOPEには、大きな違いがあるという。

「プロジェクトHOPEは、一人の患者さんのがん組織を対象に100~400の遺伝子解析を行い、そのデータを薬の選択など個別化医療に直結させるクリニカルシーケンスとは異なる研究です。
2万にも及ぶすべての遺伝子を解析して、そこから創薬や診断薬の開発、遺伝性がんの有無や体質の問題など、新しい事実を導き出していくための試みです。
日本人を対象に全遺伝子解析を行い、臨床データと完全に突合することが可能なので、今後はクリニカルシーケンスの解釈を進化させ、今のクリニカルシーケンスには採用されていない新たな遺伝子を加える等々、さまざまな方面に活用が広がっていくと期待しています。もちろん、臨床診断のためのソフトウエアの開発にも役立っていくでしょう。
プロジェクトHOPEと連動した治療薬や診断薬の開発が、ファルマバレーという医療城下町の中でどんどん実践されていくに違いありません」

2016年9月には、静岡がんセンターと並ぶファルマバレ-構想のもう1つの中核施設である「ファルマバレーセンター」がオープンし、医療のイノベーションを実現させる基盤は完全に整った。

より高く、広い理想をめざし、静岡がんセンターの挑戦は続く。

Writer Profile

木原洋美 Hiromi Kihara

医療ジャーナリスト

週刊現代『日本が誇るトップドクターが明かす』(講談社)、ダイヤモンドQ『がん 心臓病 脳卒中 備え方・付き合い方』(ダイヤモンド社)、ドクターズガイド(時事通信社)等、雑誌・ムック本を中心に企画・取材・執筆を多数手掛けている。ダイヤモンドオンライン(ダイヤモンド社のWEB)コラム好評連載中。

 

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