看取り大国ニッポンの在宅医療【第1回 延命治療から緩和ケアへ】

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2017.06.08 Thu.  松山あれい

世界に先駆け、超高齢化社会を迎えようとしている日本。団塊の世代が後期高齢者となる2025年に向けて、地域包括ケアシステムが整備されつつある今、その核となる『在宅医療』の現場では何が起きているのか。シリーズ第1回で登場するのは、在宅医療の前線に飛び込んだベテラン医師。末期がんの患者が多い在宅医療に欠かせない『がん医療』の今昔について取材した。

柳澤 博(やなぎさわ ひろし)医師 プロフィール
日本緩和医療学会暫定指導医 日本緩和医療学会指導者研修会修了 がんのリハビリテーション研修会修了
日本補完代替療法学会認定学識医 元日本泌尿器科学会認定指導医
1983年 国立滋賀医科大学卒業 1983年 東京女子医科大学第三外科研修医
1992年 国立がんセンター東病院緩和ケア科 非常勤医師 2005年 戸田中央総合病院緩和ケア科部長
現在は、在宅医療を専門に行うやまと診療所に勤務

総合病院の部長が、なぜ小さな在宅医療の診療所へ?

『総合病院で部長を務めた医師が、2013年に設立されたばかりの在宅医療の診療所にいる』と聞いたとき、最初に浮かんだのは『なぜ?』という素朴な疑問だ。

しかし、インタビュー当日、件の柳澤医師が現れた瞬間にその答えは出ていた。相手を包み込むような柔らかで控えめな物腰に、若手さながらの目の輝き。

『人間が好きで、挑戦することが好き』そして、『在宅医療の最前線には、自分が向き合うべき患者さんと挑戦がある』。そこには、年齢とキャリアに甘んじることなく、自らの理想に矛盾しない生き方を選んだベテラン医師の姿があった。

余命僅かでも積極的な治療が是とされた時代

柳澤医師は、1983年に大学病院の外科の研修医としてキャリアをスタートする。1983年といえば、東京ディズニーランドが開園し、ドラマ『おしん』が大ヒットした年だ。日本は、これでもかと続く好景気を背景に上昇ムードに包まれていた。

「研修を終えて何年か経った頃のことです。所属する大学病院で行っていたがんの新しい治療がメディアに取り上げられ、私の勤める病院にもがん患者さんが入院してきました。特に、末期がんの患者さんが多かったのを覚えています。その頃は、自力で呼吸ができなくなると、気管内挿管後に人工呼吸器をつけて、延命治療を行うことがよくありました。余命僅かだとしても、できる治療があれば積極的に行います。それが果たして良いことなのか、迷いはあるものの答えは出ません。一般的な医療現場では、“緩和ケア”という言葉はもちろんのこと、“がんの痛みを和らげる”という概念すらない時代でした」(柳澤医師)※以降「」内は同様

静かな医療現場にカルチャーショックを受けた

“患者に痛みや負担が伴うとしても、とにかく積極的な治療を施す“という当時の医療現場の常識に違和感を覚えていた柳澤医師。その思いに呼応するかのように、1990年代になると医療現場に変化が訪れた。日本緩和医療学会の設立に加え、緩和ケア病棟として承認を受けた病棟が誕生、ターミナルケアの専門誌が創刊されるなど、日本でも“がんに伴う肉体的、精神的な痛みや辛さを和らげる”緩和ケアという分野が認知され始めたのだ。

「緩和ケアに関する情報は常に確認していたものの、教科書には痛みを緩和するためのモルヒネの使い方すら載っていませんでした。そこで、学ぶためにはこの目で現場を見るしかないと思ったのです。そんな中、1992年に千葉県柏市に緩和ケア病棟を持つ国立がん研究センター東病院が設立されました。“国立病院なら、医局に所属したまま研修が可能では?”と考え、早速相談してみたところ、3ヶ月間の研修が許可されたのです」

念願叶って研修先へ向かった柳澤医師を迎えたのは、驚くほど静かな世界だった。

「それまで働いていた大学病院の病室には様々な医療機器があり、人の出入りも激しく、忙しない。一方で、緩和ケア病棟の病室は、シーンとしているのです。人の出入りも少なく、医療機器も少ない。でも患者さんは、とても穏やかな表情をしている。“症状緩和と精神的サポートによって、こんなにも静かな医療現場ができるのか・・・”と、違う世界に来たようなカルチャーショックを受けました」

外科系から緩和ケアへ、そして在宅診療へ。2017年現在、柳澤医師はやまと診療所の医師として訪問診療を行っている

『延命治療が最優先』の現場から『緩和ケアの最前線』へ

柳澤医師は研修初日、病棟長から『緩和ケアには向き不向きがあるから、本当にこの道に進むかどうかゆっくり考えた方が良い』と言われたのだという。緩和ケアの認知度がまだまだ低く、研修を受ける医師も少ない時代だった。

「それまでは、末期がんの患者さんの病状が悪化すると、まず高カロリー点滴を行い、呼吸が悪化すると気管内挿管、最後には心臓マッサージを施し“手を尽くしたがダメでした”という流れを経て、医師も家族も納得するというのが一般的でした。延命治療の前では、患者さんの苦痛はなおざりにされていたと言えます。しかし、緩和ケア病棟では、患者さんの痛みに向き合う医療を行っており、その現場を見て“苦痛を取り除くことも、立派な医療なのだ”と実感できました」

3ヶ月の研修を終えて医局に戻った柳澤医師は、またすぐに国立がん研究センター東病院に戻って来た。

「医局に戻ったものの、これで終わりにはできませんでした。緩和ケアでは、外科手術のような“病状を劇的に回復した”というカタルシスは味わえません。しかし、“痛みが和らいだ”“好物が食べられた”といった患者さんのささやかな喜びが、その都度、私にとっても喜びになります。緩和ケア病棟は、“患者さんのQOLの向上”に取り組める先駆的な場所でした。そこで、医局に所属したまま、非常勤医師として週1回勤務することにしたのです」

そして2年後、柳澤医師は本格的に緩和ケアの道へ進むことを決意し、医局を退局。以降20年に亘って、緩和ケアの最前線で様々な取り組みを行ってきた。

次の挑戦は『新しい在宅医療』

2015年、総合病院の緩和ケア科の部長であった柳澤医師は、“病院で行う緩和ケアには、十分に取り組んだ。次に取り組むべきは何か”という思いを携え、自ら転機を迎え入れに行った。

「在宅医療に興味はあったものの、年齢を考えると体力的に難しいと考えていました。老人保健施設での終末期医療か、がんのリハビリテーションか…と迷っていたとき、在宅医療の新しい形を模索している“やまと診療所”の存在を知ったのです」

やまと診療所は、何度かメディアにも取り上げられた東京都板橋区の在宅診療所だ。

「やまと診療所の見学時に驚いたのが、PAと呼ばれるスタッフの仕事ぶりでした。患者さん家族とのコミュニケーションから診療内容まで、タブレットでパパッと入力していくので、医師は書類記入の手間がほとんどありません。診察に専念できるうえ、残された記録は、患者さんの人柄までわかる密度の濃いもの。前職で行っていた訪問診療と比較して“こんな訪問診療のスタイルがあるのか”と、カルチャーショックを受けました。そして、自ら課題としてきた“患者さんのQOL向上”にチーム一丸となって臨める場は、やまと診療所なのではないか、と考えたのです」

医療現場における人生二度目のカルチャーショックを受けた柳澤医師は、かくして当初の思惑とは裏腹に在宅医療の最前線に飛び込むことになった。

では、柳澤医師が衝撃を受けたやまと診療所独自の職種『PA』とは、何なのだろうか。そして、柳澤医師を触発したスタッフの前向きな姿勢は、どこから生じるのだろうか。

次回は、やまと診療所が目指す在宅医療のあるべき姿、そしてその理想を達成するために生まれた『PA』という独自の職種について詳しく述べたい。

Writer Profile

松山あれい Arei Matsuyama

編集ライター

インターネット広告代理店、マーケティング会社を経て独立。フリーランスにて企画・編集・執筆を行う。現在取り組んでいるテーマは「終末期医療」。

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